27: 22 2009/08/26(水) 10:10:57 ID:Mglm7wvQ
「…ここの坂をずっと上がってけば、その家に着くよ。」

老婆が皺が畳まれた指で、よれよれで、油性ペンで地図が大雑把に描かれているメモを弱々しく指差す。
日差しが南中するさなか、少年は何度も頷いた。
左に分け目のある、少しばかり長い前髪がそれに合わせて揺れる。

「ありがとうございました。」
「はいよ、」

そして、礼を告げた後、坂へと黒い短髪をはね上げ、揺らし、かろやかにスキップするように駆ける。

「…ほんとに、行くのかね?」

ふとそよかぜが、しわがれた声をはこぶ。
他人を気遣う割には、優しすぎる声でもあった。
思わず止まると、枯れ果てた大樹の下で、きゅっ、と磨り減ったゴムが鳴き、スニーカーが軋んだ。

「どうして、ですか?」
「あそこにはね、」

そこで一息置いた老婆は、整備し直される余地もない、ひび割れたコンクリートの隅に追いやられて居る大樹に目をやる。
その間、汗のにじむ、普段は日にあたらないために決して健康的な色みではない、白い首筋を、唾をごくりの飲み込み、揺らす。

「魔女が棲んでるという噂だよ。」

28: 22 2009/08/26(水) 10:12:09 ID:Mglm7wvQ
長い坂を登って、息をぜえぜえと切らしながらも、古ぼけた廃墟に近い洋風の家に辿り着いた。
一帯はこの家の他には何もなく、まさに魔女が棲むと言われても仕方ないような辺鄙な土地であった。

まさかここが、15年前までは要塞都市だったとは想像もつかない。
当時は復興の兆しも見られないくらいの壊滅ぶりだったらしいが、現在はようやく農村にまで回復した。
そして、29年前のセカンドインパクトによって世界人口が半分になり、その後のサードインパクトは未然に防がれたのにも関わらず、世界人口は随分と減った。
それは今も変わらずに減り続けていて、いつ、人類が終息の時を迎えるか、などと酷な課題に躍起になって科学者たちが言い争って居る。

しかし、今を生きて居る。
それだけでも幸せなのだと幼き日に誰かが言っていた気がした。

思い出したいのに、思い出せない。
この少年の細いラインを、強調していると言わんばかりの肩には、そんな数多の思い出せない思い出が重くのしかかっていた。
制服の白い生地が、日光を吸収して暑かったのもあるが、それ以上にどんな『魔女』が棲んで居るかという不安からか、嫌な汗をじっとりとかいていて、拭っても拭っても暫くの間、じんわりと噴き出していた。

29: 22 2009/08/26(水) 10:13:17 ID:Mglm7wvQ
ようやく息を整えたところで、蜘蛛の巣がはびこっているインターホンに表情を曇らせながらボタンを押す。
が、ボタンが割れ、押し込まれている時点で鳴る筈もなく、仕方ないので扉を二回トントンとノックした。
暫くしてガチャ、と何ともつまらない音を立ててドアは容易く開いた。


出て来たのは、金の長髪、すらっとした四肢。左眼にざっくりとある、傷が特徴的であった。
あとは、どこか出掛ける予定だったのか、白いシャツに黒いロングスカートという、しゃんとした格好であった。
少年がしていた予想よりも、はるかに若かった、目の前の女性は、玄関のドアのノブを掴んだまま、蒼い透き通った眼をずっと見開いたまま硬直している。

無理もない。アポイントメントも無しに来訪してしまったからだ。
急な来訪なのは、彼女の存在を三日前に知ったばかりであったためである。
少年もまた、蒼い眼に貫かれ、身動ぎが出来ないさなか、水分を渇望する喉笛から、掠れた声を絞り出す。

「あの、式波さんの…お宅でしょうか?」

そう声をかけると、どうやら外国人らしい彼女は、はっ、として少年を見た。

「…あんたは、」
「――碇レイジ、です。」

そう名乗ると、彼女は息をひそやかに呑み込み、黙ってレイジを招き入れた。

30: 22 2009/08/26(水) 10:16:09 ID:Mglm7wvQ
「…はい。」
木目調のテーブルに無造作に紅茶が置かれた。
しかし動作の割には、水面は湯気を放ちながらテーブルと同じような、やさしい色の波をつくっていた。
「ありがとうございます、あの、式波…さん…?」
上がり口調に言うと、向かい側のイスに座った彼女は薄く笑った。
「私は式波・アスカ・ラングレー。…アスカで良いわよ。」
「…アスカさんは、エヴァンゲリオンのパイロットだったんですよね。」
「はは、単刀直入ね。…そうよ。」
巧みに日本語を駆使するアスカはよく笑う人らしく、表情はやわらかい。
それによってレイジは少しだけ安堵の息を細くもらした。
「僕の父や母も、ですよね?」
瞬間、一転して表情が硬くなる。
「…ええ、やっぱあんたって、」
レイジは黙って頷いた。
アスカの蒼い眼から離し、行き場をすっかり無くした視線は、カップの中の海におぼれてゆく。
そしてあまりにも、淡々と、

「はい、実験的につくられた子供です。」
そう静かに告げると、それは知らなかったようで初見のときのように眼を見開く。
「え、実験的って、」
乾いた喉を、砂糖も何も入っていないために少しばかり苦い紅茶で潤し、言葉を紡ぐ。
「…当時、パイロット同士の子供なら、より優秀なサンプルが誕生すると、考えられたようです。」
レイジは、アスカの返事を待たずに続ける。
「ですから、父と母は肉体的な交わりを持たずに、人工受精を行なったそうです。」
「…。」
アスカは説明をはじめてからは、口をかたく閉ざしている。
「父と母は、了承する以前に言ったそうです、」

『この先アスカが傷付けないようにしてくれるなら、引き受けます。』
『二番目の子にやらせるなら、私がやります。』

彼女の目の前にある白いカップに、一滴の涙が波を立てた。

33: 22もといシイ 2009/08/26(水) 13:41:24 ID:???
嗚咽をもらすアスカにレイジは、淡々とした機械的な口調から、意識せずとも普段の口調に戻す。

「だから、教えて下さい。そんなに大切にされた、アスカさんでしか知らない、父…碇シンジのことを。」

それからは、しばし沈黙が続いた。
否、広いリビングに嗚咽だけが響いた。
やがて、若干の涙声が嗚咽の代わりにフローリングの上をすべってゆく。

「…何年ぶりかしら…いえ、サードインパクト以来、初めてかもね、」

こんな廃墟に近い場所では、人と会話することも希少な筈なのに、随分と口調はさらりとしている。
実際、サードインパクトは未然に防がれた訳だが、アスカにとってはもう既に起こったとされる物言いであった。

アスカは未だ生々しい傷のある、目元をぐいっと拭った。
その拍子に、雫が弾け飛ぶ中、レイジを見つめ微笑みながら、続ける。

「…シンジのことを話すのは。」

レイジにはアスカのその涙混じりの微笑みが、哀しいものにしか思えなくて仕方がなかった。

34: シイ 2009/08/26(水) 13:42:09 ID:???
「…あんたレイジ、だっけ。ひどく酷似してるのよ、シンジに。」
「そうなんですか。」

アスカの所在地を教えてくれた、ある人にもそんなことを言われたのを思い出しつつ、レイジは曖昧な相槌を打つ。

「それにしても、母親のことは聞かないのね。」

母親、綾波レイ。
レイジは、目尻が紅く染まるアスカを見上げた。

「何か、知ってるんですか…。」

そう言うが早いか否か、アスカは急に立ち上がり、礼服を羽織り、漆黒の眼帯を着け始めた。

「んー、これ着けにくいなー。」

暫時の間に目まぐるしく状況が変化してゆく為に、レイジは呆然とするばかりだった。
そしてアスカが眼帯をようやく着け終わった頃、ようやくやんわりと口を開く。

「…どこに、行くんですか。」

ガラリ、と窓を空け、そとの風を受けて、さしずめ当たり前かのように、眼帯に礼服姿のアスカはさらりと言ってのける。

「彼女のところよ。」

35: シイ 2009/08/26(水) 14:53:17 ID:???
未だにアスカの言う「彼女のところ」が理解出来ないまま、庭から摘んで来た、意外と彩りのある花束を持つ彼女のすぐ裏をついて、緑が生い茂る子道を数分歩く。

「なんでかしらね、赦されたいから、ここに居るのかもしれないわ。」

ひそやかに、独り言のように呟く言葉が脳裏に溶け込む。

確かに、廃墟を住みかとする理由はない。
実際レイジも、今現在の都市に移り住んで居る。
物心ついた時から田舎の施設で育って来た。辛くもなく、楽しくもない、ただ退屈な場所であった。
ほんのつい半年前のことだ、不思議な雰囲気を纏った女性に引き取られたのは。
伴侶も居ないのに、どうやってレイジを引き取れたのかは定かでないが、彼はただ、この退屈な日々から抜け出せることに、わすがながら淡い期待を抱いていた。
そのため、ここに逢着する迄に、かなりの時間を要したことを不意に思い立った。

「着いたわ。」

ざわっ、と一際夏の風に緑がさざめき合う。
その風に、少年は暫し揺らいだ。
そして彼女は、哀愁の念を孕み、透き通る蒼い眼をいとおしげに、遠くに投げ掛けるように細める。
レイジはそんなアスカを一瞥し、同じように眼を細める。

その先にあったものは、

「ここに、母さんが眠っているんですか。」

墓場だった。
レイジは、ようやくアスカの言葉の意味を悟った。

36: シイ 2009/08/26(水) 14:56:58 ID:???
「…ええ、こっちよ。」

アスカは閑散とした墓場を、慣れたように動きまわる。
既にこれは習慣となっているのだと、その動きを見て、レイジは小さな背中を追った。

数多の墓標には、セカンドインパクトやサードインパクトによる死者の名がひとつひとつ、刻まれていた。
それは醜い生存競争の中で、人間が犯した罪を、掘り起こし、痛感するにしては十分すぎる数だった。
膨大な数の墓標を眺めながら、自分が生まれ落ちる以前の地球、壮大なる宇宙に、思い馳せた。

不意にアスカが立ち止まった。
レイジは思わずつんのめりそうになり、ふらつく。
声を掛けようとした。が、アスカの肩が震えていることに気付き、レイジはひどく狼狽した。
そういう時の対処法を持ち合わせて居なかったためでもある。
とにかく彼は、感情の起伏の多い人間とは、あまり接点が無さすぎたのだ。

静寂に満ちていた筈の墓場には、人影が二人の他にもあった。
その一つの人影は、彼らが目指していた筈の、ある墓標の前で目を瞑り、両の手のひらを合わせている。

その姿は、レイジと瓜二つといったところだった。

39: シイ 2009/08/26(水) 20:32:36 ID:???
「シン、ジ、」

ぱさり、とあまりに容易く地に落ちた、この場に相応しくない色彩を放つ花束に、簡易に巻かれた薄い透明なビニールが音を響かせた。
その音と声に反応して、呼ばれた青年が振り返る。

「――シンジ!」

彼女は二度目に名を呼んだ時には、金髪を翻し、スカートであることを忘れているかのように、花束を大きく跨いで彼に抱き付いて居た。

「アスカ、…アスカなの?」

シンジ、と呼ばれた青年はスーツに包まれた腕を彼女の肩に伸ばしかけて躊躇っていた。

「生きてたのね!連絡くらい、寄越しなさいよ!」

強気な口調とは相反して、嗚咽は止まらない。
その間、レイジは周りにちらほらと花びらが舞う、墓標に刻まれた「Rei AYANAMI」という文字とともに、彼らを呆然と眺めているだけだった。
まるでブラウン管越しに見つめているかのように、目の前の光景が他人事に思えた。
自分という存在が浮き上がり、虚空に霧散した気さえする。

「父さん…。」

そんな独り言は、花束に寄り添って虚しく横たわっただけだった。


第一章・終

45: シイ 2009/08/28(金) 01:54:59 ID:???
暫くして、急にアスカが顔を赤らめ、シンジの胸から身体を離したのは言うまでもない。

「…アスカだって行方を眩ませたじゃないか。」
「う…。」

先程の問いに答える余裕がようやく出来たシンジは、改めて不自然な程に、自分に似た少年に振り返る。

「君は、」
「…はじめまして、父さん。」

実質、「はじめまして」ではないことくらい、彼は判って居た。
しかし、それは彼の記憶に無い程の過去だった。

アスカの肩をそっとすり抜け、ゆっくりと、シンジは歩を進める。
レイジの目の前に来て、すっ、と手を持ち上げた。
少年は身を固くし、ぐっと瞼を閉じた。
眼をおそるおそる開いた時には、頭上に暖かな温もりがあった。

「ありがとう、生まれてきてくれて。」

レイジは、生まれ落ちた時以来の涙を静かに流した。
これが、涙。
嬉しいときにも流れるものなのかと、レイジは不思議に思った。
ありがとう、なんて言われたことなんて、この頼りない両手の指で数え切れてしまうほどだ。
ましてや、自分が生まれて来たことに感謝されるなど、かつてなかった出来事であった。
この人が、父親で良かったと心から実感したのも同時であった。

黒髪の上にある手のひらの温もり、暫くの間は取り払われたくなかった。

46: シイ 2009/08/28(金) 01:57:32 ID:???
「やっぱ、あんただったのね。」

この父子の在るべき姿をあたたかく見守って居たアスカは、もう一人、同じようにして見守る存在に気付き、ふっと呟いた。
取り払われる手のひらを名残惜しそうに見つめ、レイジは、今は墓標を優しげに撫でる手のひらの持ち主の声に耳を傾けた。

「綾波はね、君を産んですぐに亡くなったんだ。」

レイジは思わず表情を曇らす。
シンジは雰囲気を和らげるように微笑みをもらした。

「そんな顔しないで。元からサードインパクトの影響もあったんだ。」

墓標から手を離し、立ち上がる。
風が強くなり、ひとかけの花びらがレイジの黒髪に彩りを持たせた。

「君を産むことに懸念する声もあったけど、綾波は君が無事に生まれたことを喜んでたよ。」

それは、彼女は全く知らない話でもあり、アスカは薄く自嘲気味に鼻から息をふん、ともらした。
彼は再び手を伸ばし、レイジの髪に捕らわれている花びらを、憐れむように指で掬い取った。
その時アスカは気付いた、シンジの左手の薬指に、くすんだ色の灯りがあることを。
そのことに気付いた途端、ひどく彼女は動揺して居た。
うそよ、でも…。

声にならない呟きは、あたたかな日差しの中に吸い込まれていった。

「僕は父さんの代わりにネルフに常駐してて、久し振りに外に出たよ。丁度十五年振りかな。」

十五年、あまりに長い年月にアスカは目を見張った。

「だから、代わりに彼女に君を引き取りに行ってもらったんだ。」

そう言って、金髪の女性が居る位置とは真逆の方角に首を向けた。

52: シイ 2009/08/29(土) 23:37:08 ID:???
「やっほー、ワンコくんたち。」

彼が気がつくと、もう目前にセミロングの茶色の髪に赤ぶち眼鏡の彼女が立って居た。
ちなみに、施設から彼女の部屋への引っ越しの際に、サードインパクトによって自慢の髪が肩の上まで焼切られてしまったために、なかなか伸びないと、軽々と小さな段ボールを担ぎながら、そんなことを言って居た。

「マリさん!」
「この度は、息子をどうも。」
ぶらぶらと陽気に手を振る様は、この場に最も似つかわしくないと感じたアスカだが、彼女も礼服を着こなして居て、皮肉の言葉を呑み込み、甘んじて眉をひそめるだけであった。
「ううーん、仕事ないしさー。」
とは言っても、膨大な金額の賠償金が各々のパイロットに支払われている筈だ、アスカは実際それで生計を立てて居る。
マリは口許に意味有りげな微笑みをたたえながら、シンジの襟を掴み、肩にその端正な顔を埋めた。

「え!」
「あ、あんた!」
アスカとシンジが驚嘆の声を響かせる中、レイジは心中のみで、溜め息を吐いた。ちなみに彼は初対面で、その異常なる行動をされて卒倒しそうになったものだった。
「相変わらず、L.C.L.の匂いがする。良い匂い。」
その間もアスカは、わなわなと肩を震わせていた。
「あんたねぇっ!いい加減に、…!」
つかつかと歩み寄ったアスカにもマリは同じ行動を取った。
「…もしかして花でも抱いてた?L.C.L.の匂いも混ざってるにゃー。」

結局、レイジはその光景に、深い深い溜め息をもらしてしまった。
しかしレイジは知らない。L.C.L.は血の匂いにあまりにも似ているということを。

53: シイ 2009/08/30(日) 00:03:46 ID:???
「と、とりあえず、墓参りに来たんだから…ほら。」

シンジが花びらが幾分か散ってしまった、不格好な花束の先端をアスカにもたげた。
未だ不機嫌そうに、つんと横を向いたアスカの姿は、彼らの当時築かれていた人間関係が窺えて、レイジはシンジの後ろで思わず噴き出してしまった。

「あらら、まだ拗ねてるのー。」
「うっさいわね!」

マリを睨めつけるように横目で一瞥し、ちっ、と短く舌打ちすると、シンジから半ば奪い取るようにして受け取り、そのまま本来最初に向かい合う筈だった、彼女へと捧げた。

「…今年は賑やかでしょ、良かったわね。」

花束と共に、静かな黙祷も捧げた後に、アスカは口角を少し和らげて言った。
それは、ささやかながら、親愛なる者に向ける弔いだと、初めて墓参りと言うものを目の当たりにして少年は感じた。

「さてとー、帰ろっか。」
「え、」

レイジはマリの突然の言葉に驚きを隠せない。

「パイロット同士、お互いつもる話があるのよ。」
「でも、」

不満の声音が口をつく。が、

「大丈夫、また会えるから、ね?」

そうやって、彼の応答を待たずして鼻歌混じりにレイジの手を引く。
振り返った時には、アスカとシンジは寄り添って、花束が手向けられた彼女に、既に背を向けて居た。

56: シイ 2009/08/30(日) 03:59:46 ID:???
「なんで、父さんが生きてるって教えてくれなかったんですか。」

寂れた交差点での、ほぼ意味を成していない信号待ち、歩行者側のシグナルが点滅する中、マリが運転する停止した車内で、レイジは柄にもなく紅潮した頬を膨らませて居た。
小さな手は、ちょこんと、拳を膝の上で二つほど形づくっていた。

その行動が、あまりにも年相応に思え、普段のませた態度と無意識のうちに比較し、マリは噴き出すのをこらえるために頬を引きつらせ、口角だけを上げている不自然な笑いになった。

「だって、知るも知らないも君の自由でしょ?、教えることは教えたつもり、最低限はね。」

彼女のどこか食えない物言いに、ますますレイジは、眉を上げ気味に、はち切れんばかりにフグの如く膨れ上がった。

やれやれ…これは懐かれたってことかな?

マリは僅か半月で懐柔された子犬を尻目に、青信号になった道路へと満足気にアクセルを踏み鳴らした。

59: シイ 2009/08/30(日) 09:06:40 ID:???
「十五年間、ネルフで何してたの。」

ベランダに、寄り添いながら腰掛ける男女が居た。
庭の樹々が囁きあうように揺れる様子を眺め、十五回目の秋の訪れを待たずして、一枚の紅葉が彼の膝に舞い散る。

「始末書とか、書いてたかな。あと、ちょっと研究。アスカは?」

「何にも、ただ彼女のところに毎日おしゃべりに行ってただけよ。」

そのために、此処に住んで居るようなものだから。

その一言は喉元にまで込み上げたが、再び心の隙間に棄て置いた。
勿論、彼女とは何も語らずに静かに立って居るだけの墓標のことだが。

「レイジや、あんたのことは、どうして黙ってたのよ。」

深呼吸をひとつ、ふたつ、繰り返し、彼は紡ぐ。

「綾波は僕の気持ちを知ってた、だから自ら残酷な道を選んだ。」

アスカは俯いた、返す言葉が模索しても見つからないと嫌という程、判っていたからだ。

「サードインパクトが起きて、…いや、起きかけてエヴァは全機消滅したね、」

ふと古い映像が脳裏に鮮明に甦る。
紅い雨が降り注ぐ中、遥か天上に近いところに在る、虹を見上げて、『さよなら、母さん。』、呟いた、傷だらけで微笑む少年を、彼女は追憶の対象とした。

しかし、彼女は知っている、彼は自身の手で母なるエヴァを、破壊したことを。

64: シイ 2009/08/30(日) 13:07:56 ID:???
「エヴァに乗る義務がなくなった、ということは、レイジは要らない存在になってしまったんだ。」

少年の酷な運命に、彼女は唇を噛み締めた。感情的になったせいか、自ずと彼の独壇場に仕立てあげた筈なのに、横から口を出してしまった。

「だから、田舎に預けたのね。」
「うん。そこが一番命を狙われにくかったから。」

用の無くなった者は、抹消。
どの道、組織内で匿って育てるには不可能に近かった。

「でもね、一緒に暮らせる方法が見つかったんだ、」

しかし、声音とは逆に苦悶の表情を浮かべる彼。
その表情を見て、彼女は気付く。
否、聡い彼女は、気付かずには居られなかった。
以前、赤木リツコ博士が責任者を務めて居た、「E計画」を継ぐ形になったのだった。

「また、エヴァをつくるの、」
「いや、つくらせないよ、そのためにアスカの力が必要なんだ。」

彼の瞳には決意が強く滲み出ていた。
アスカは、その眼に射抜かれ、久々にぞくぞくするような、無邪気な少女時代に感じた、心が昂揚する浮き足だった気持ちに見舞われた。

「バカシンジに頼まれたなら、仕方ないわね。」
「…ありがとう。」

シンジが礼を告げ、微笑むのを見て、アスカは誇らしげに声なきまま笑った。

65: シイ 2009/08/30(日) 13:09:12 ID:???
「それと、」

彼女は悪戯っぽい笑みを滲ませて、彼の左手の薬指をつついた。

「まだ付けてたんだ。」

最後の夏祭りの夜店、お揃いで買った、安っぽいシルバーリング。
それは過去、中学生だった頼りない彼ら二人が誓えない未来への慰め、即ち愛のかたちとしてお互いの左手の薬指に嵌めた指輪だった。
愛のかたち、小癪な響きに当時は苦笑したものだが、今は安らかに枷の如く、固くなった彼の指に嵌っているのだった。

十五年もの長い歳月の間もありながら、彼が外さずに付けていたことに先程は目を疑った。

「アスカは…、」

不安そうにシンジは、蒼い眼を見つめる。

「バカね、そんな顔しないでよ、…ほら。」

胸元から、ネックレスに仕立てられた指輪を取り出した。
シンジはそれを見て、曇って居た頬に、満面の笑みをたたえた。

「嵌んなくなっちゃったのよ。」

よっぽど悔しいのか、ぎりりと歯を鳴らす彼女に、まあまあと苦笑し諫める。
指輪を持って居るということ、それは即ち今でも気持ちは変わらないという、意思表示でもあった。

だからシンジは告げる、

「新しいの、欲しくないの?」

69: シイ 2009/08/30(日) 14:14:44 ID:???
彼女は意味が理解出来ずに唖然とし、否、判っていたが、信じられない心情の中、ぼうっとしてシンジを見上げた。
風が疾走った、彼女の長い金髪がなびく。
目にかからないくらいの短さを保つ、前髪がふわりと浮いた。

「どういう…、」

言葉を紡ごうとした唇は、彼によって封じられた。

十五年振りに合わせた唇は、微かにほろ苦い、でもあたたかな紅茶の味がした。
かつて、レイジの産みの母の部屋で飲んだ味に似ていることが、彼の脳裏によぎり、この愛は尊い犠牲の上に成り立って居ることを改めて自覚した。

暫くして、唇を離した彼は、頬に添えた手のひらで彼女の黒い眼帯を外し、親指でそっと、眼下の生々しい傷跡を撫でた。

「…傷、残っちゃったね。」
「あんたが貰ってくれるなら苦にならないわ、そうでしょ?」

未だ一枚の紅葉が乗った、彼の膝には、白い薬指に新しい灯りがある、彼女の手のひらがあった。


第二章・終

100: シイ 2009/08/31(月) 17:21:55 ID:???
話は、半月前に遡る。

人形のように、どこか一点を見つめ、浮わついた視線の主を、施設内を説明する二人の職員の隙間から、赤ぶち眼鏡の奥にある鋭い眼光が捉えた。

マリが彼の目の前を通り過ぎようとする。
が、立ち止まり、職員たちに宣言するように、

「この子を引き取ります。」

「な…。」

意見しようとする職員へ、鼻の先ぎりぎりに書類を突き付ける。
「特務機関ネルフ」と文字がちらついたのが、今でも少年の脳裏を掠めるのだった。

それからは、目まぐるしい日々であった。
施設にあった僅かな私物を小さな段ボール一つに纏め、彼女が軽々と持ち上げ、車のトランクに積み込む。
彼女の部屋へたどり着くには、車で丸々三日を要した。
途中、何故か何回も匂いを嗅がれて、卒倒しかけた。
そんな状況でも、レイジがマリを拒絶しなかったのは新しい生活にかけた願い、即ち希望を彼女へ僅かな荷物と共に我が身も託したからでもあった。

101: シイ 2009/08/31(月) 17:26:53 ID:???
半月後、アスカが住んでいる旧第三新東京市から、マリのマンションまでは、レイジが掛かった膨大なる時間よりも、遥かに微塵に近い時間で到着した。

「ふー、たっだいまー。」

車に於いては随分と長旅であったために彼女は、両手を丸めて天に突き上げるようにして、小さく呻きを上げ、大きく伸びをしてから、先に「真希波」と表札がある扉を開け、玄関へと、ずかずかと足を踏み入れた。

何かを思い立ったのかレイジは玄関の前で立ち止まった。
既に片足は玄関マットの上で、もう片方の靴を脱ぐのに苦戦しているマリが不思議そうに目だけ向けている中、レイジは照れたように微かに頬を染め、

「…ただいま。」

そう呟く彼に、マリは穏やかな顔つきで背を伸ばして返答をする。

「おかえりなさい。」

レイジが、そっと玄関に降り立ったと同時に、無機質な音を立てて扉が閉まった。

その行動を、十字架を胸にかかげた女性と、当時から彼に酷似していた少年とが、過去にかりそめの家族となる為に行なったなどとは、彼ら二人は知る由もなかった。

105: シイ 2009/09/02(水) 00:24:56 ID:???
それから、幾日かが矢のように過ぎ去った。彼女は久々に、坂を降りた。

坂道の途中で、顔中に皺が畳まれた老婆に出会う。遥か先方を見上げ、老婆は驚きを隠せずに、大きく眼を見開いた。
それもそのはず、老婆はつい最近まで坂の上に住んで居る物好きを、恐ろしい魔女だと信じ切って居たからだ。
それがスーツケースを引いた、蒼い眼をした異邦人だとは思いもよらなかったのだろう。

トラックが何台か走る坂道、いつもは人さえも通らない。
老婆が見る限り、どうやらその異邦人は引っ越しをするようだった。

やがて彼女が枯れ果て、今にも倒れてしまいそうな大樹の前で老婆の側を横切った。

老婆を彼女が掠めた刹那、彼女は意味有りげに口角を吊り上げ、歪んだ嘲笑を餞別代わりにした。
それは威圧感に充ち満ちており、老婆は思わず息を呑んだ。
老婆は圧倒され、よろめきながらも彼女の背中を見送り、ようやく悟る。

眼帯姿の金髪の彼女は、魔女よりも恐ろしい者であったということを。

110: シイ 2009/09/02(水) 17:48:14 ID:???
「ここは、」

旧第三新東京市、この地にもまた降り立った者が居た。
「そう、特務機関ネルフ。今は解体されたようなものだけどね。」
もう、殆ど廃墟に近いように思えたが、施設に入った瞬間、
「わぁ、すごいっ!」
無邪気に周りを眺め回している少年を尻目に、彼女はエレベーターを目指した。

「ここに、父さんが居るんですか。」
「そうだよ、会いたいでしょ?」
少年さながらの煌めきを瞳に閉じ込めたまま、レイジは俯いて、また頬を紅潮させ、ぼそぼそと声をひそめた。
「はい、まぁ…。」
どうやら視界が悪いのか、マリは眼鏡を外し、息を吹き掛ける。
「でもワンコくんのところまで行くのに、色々検査とかあるから、それが大変かもねー。」
言い終わると同時にチン、と簡素な音でエレベーターが到着を示す。
「検査って…わぶっ!?」
扉が開き、歩を進めようとしたレイジはマリを見やっていた為、前方を全く注意してなかった。
「ちゃんと前見て歩きなさいよ!」
「ごごめんなさいっ、…?」
明らかに人にぶつかり、動揺していたところに降って来たのは聞き覚えのある声で、思わず顔を勢い良く上げた。
「やっぱりね、何日振りだっけね?、レイジ。」
「あ、アスカさん!?」

113: シイ 2009/09/02(水) 22:14:10 ID:???
驚きのあまり素頓狂な声を上げるレイジの後ろで、眼鏡をカチャ、とかけ直す彼女が、投げ掛ける。

「思ったより、早かったねぇ。」
「ま、ね。荷造りが早く終わったから。昨日から住み込みよ。」

そう言うアスカに、マリは口許に手を当てて、にやつきながら、

「ワンコくんのところに泊まれば良いのにぃ。」

アスカは白衣に包まれた、ポケットへ無造作に突っ込んだままの腕を引き抜いた。

「えっ、父さんとアスカさんって、そういう関係、」

思わずレイジは口を挟むが、最後まで言い終わる前に、アスカはそのまま腰に手を当てがって、

「あんたバカァ?、シンジはずっと此所に住んでんのよ。…こっちよ。」

溜め息混じりに言うアスカと、未だに、にやにやと含み笑いを頬に残しているマリを、交互に見やって、レイジは頭が混乱したまま、彼女らに同行することになった。
彼は、何回も夏の暑さと冬の寒さという両極端を往復したような、一気にそれも幾分のうちに体験させられた心地になって、既にレイジの足取りは随分と危なっかしいものであった。

114: シイ 2009/09/02(水) 22:16:05 ID:???
アスカにより、検査は難無く省かれ、そのまま研究室に通される形になった。

しかし少年の心地は穏やかでない。
たった今情報を詰め込まれ過ぎて、レイジの脳内は、はち切れんばかりだった。
研究室の扉の前でアスカのIDカードをスキャンして、開かれた。
しかし、奥に居る背中はぴくりとも身動ぎせずに、淡々とパソコンと睨めっこをしている。

「ったく、自分から呼んどいてその態度ぉ?」

アスカが毒づきながら、近付くとシンジが振り向く。

「やっと今ちょっと切りが着いたところなんだ。そうそう、レイジに見せたいものがあって、」

デスクに幾つか並べられて居る写真立ての一つを取って、レイジの手に渡らせた。

白い部屋の中で、ベッドの上、生まれたてと言わんばかりの生後間もない赤子と、その子をかき抱き、一心に見つめている女性、と言うよりも明らかに少女に近い姿の母親が写っていた。

「分かるかい。…君と綾波だよ。」

自分と、母。
貪るように見つめ続けるレイジの傍ら、遥か遠くに視線を飛ばす、シンジが居た。

116: シイ 2009/09/03(木) 08:07:02 ID:???
「…綾波、どんな名前にするか、決めた?」

白い無垢な病室の中、カーテンが風になびく。
ベッドの横に備えられて居た椅子に腰を据える、今よりも若き彼が何度も何度も重ねられた問いをする。
少女は大きくふくらんだお腹に手を置き、やわらかく笑みをつくる。

「男の子ならレイジ、女の子ならシイ、かしら。」
「良い、名前だね。僕らの名前から取ったの。」

何度目かの問いで初めてそれを訊いたシンジは、風になびく青い髪が彼女の顔に当たっているために、そっと梳きながら、レイの紅い瞳へと視線を持ってゆく。
レイは心なしか褒められたからか少し照れながら、ええ、と紡ぐ。

それから、申し訳なさそうにシンジは眉を下げた。
「ごめんね、」
幾度も謝罪を込めた言葉を並べる彼に、レイはシンジのせわしなく動く唇を、人差し指でそっと咎めた。
「あなたのせいじゃないわ、…わたしは嬉しいのよ。」
嬉しい、その言葉の真意を問いただす前に目頭が熱くなり、彼は一言二言告げて、病室を出た。
ドアを開けた瞬間、すぐ側には聞き耳を立てて居た少女の姿があった。

118: シイ 2009/09/03(木) 22:46:35 ID:???
すぐさま彼女は、古風に捕らわれた動作で、ぱちり、と片目を瞑り、彼が先刻まで居た病室へとまるでカーテンをなびかせる風の如く、自然に踏み入れた。
少々罪悪感もあったが、目頭の熱がおさまるまで、などと理由を付けて、彼女と立ち位置をそのまま入れ替わったように壁際に息をひそめる。

「やあ、」
まだ、切り揃えた筈の毛先が微かに黒ずんでいる。
「…あなたは、五番目の…。」
「どーも、…ごめんね?、聞かせて貰っちゃった。」
レイは暫し、訝しげに眉を顰めたが、
「別に、構わないわ。」
と意外な返事にマリは、ほぉー、と感嘆の音を上げた。

「虚しくないの、こんな形で。」
「なにが。」
快く了承した先程とは相反して、素っ気無い返事。
マリは続ける、
「こんな形で、ワンコくんと繋がるってこと。」
ワンコくん、とは概出のワードで、現在はその呼び名に憤慨する者は誰も居ない。
「ええ、…それが幸せなの。」
今度は、赤ぶち眼鏡の少女の方が、やや不満気に返した。
「へぇ、それが『嬉しい』?」
「…そうよ、碇くんと、」
青い髪の少女が言い終わる前に卑下したようにマリは眼だけを剥き一蹴し、冷たい床の上で踵を返して、彼女に背を向けた。
マリが扉を開ける際、シンジは思わず身をのけ反らしたが、彼女の「都合の良い奴。」と表情を見せずに呟いたのは、しっかりと、もらさずに聞いていたのだった。

119: シイ 2009/09/04(金) 21:52:32 ID:???
「…ンジ、シンジ!」
左肩をおおきく揺さぶられ、ようやく現実に引き戻された。
「あんた、レイジに説明するんじゃなかったの。」
と呆れたように、アスカは薄く張られた氷のような、曇ったガラスの奥に飾りたてられた写真を爪先で、カツカツとつつく。
「あ、ごめん…とりあえず、今日は持って帰って?」
思慮深そうに顔を覗き込むシンジの様子を捉え、レイジは頷く。
良い子だね、シンジは呟き、息子に対する癖なのだろうか、分け目のある黒髪をそっと撫でると、早急に自分のデスクから立ち上がる。
レイジに今まで父親の存在が無かったように、シンジもまた、彼にどう接して良いか戸惑って居る指先が漆黒の頭から遠ざかる。
「ちょっと、シンジ!」
白衣を翻し、慌てて昏い色合いの赤いシャツで黒いスカートのアスカはその背を追ってゆく。

レイジは、そんな二人のやり取りを視線の合わない眼で一瞥し、また食い入るように写真を眺めて居た。

120: シイ 2009/09/04(金) 21:54:08 ID:???
「…ンジ、シンジ!」
左肩をおおきく揺さぶられ、ようやく現実に引き戻された。
「あんた、レイジに説明するんじゃなかったの。」
と呆れたように、アスカは薄く張られた氷のような、曇ったガラスの奥に飾りたてられた写真を爪先で、カツカツとつつく。
「あ、ごめん…とりあえず、今日は持って帰って?」
思慮深そうに顔を覗き込むシンジの様子を捉え、レイジは頷く。
良い子だね、シンジは呟き、息子に対する癖なのだろうか、分け目のある黒髪をそっと撫でると、早急に自分のデスクから立ち上がる。
レイジに今まで父親の存在が無かったように、シンジもまた、彼にどう接して良いか戸惑って居る指先が漆黒の頭から遠ざかる。
「ちょっと、シンジ!」
白衣を翻し、慌てて昏い色合いの赤いシャツで黒いスカートのアスカはその背を追ってゆく。
レイジは、そんな二人のやり取りを視線の合わない眼で一瞥し、また食い入るように写真を眺めて居た。

121: シイ 2009/09/04(金) 21:54:50 ID:???
「シンジっ!」

シンジが呼ばれて振り向くと、研究室から走ってきたアスカが肩で息をしていた。
「もう…、どうしたのよ。」
「アスカは昨日来たばっかりだったから、見せてないよね。」
答えにまるでなっていないシンジの言葉は、アスカの眉を訝しげにひそめさせた。
アスカは何も言わずに、先導する彼と共にエレベーターに乗った。
以前、これの扉を押さえながら、レイのシンジへ対する想いを訊いたことを、左手の薬指を見つめながら思い出した。

『碇くんにも、ぽかぽかしてほしい。』

あの頃は、感情的になって散々怒鳴り散らしたが、彼女の相手のことを想う、それは恋愛の礎にあり、しかし家族の原点でもあった。

えこひいき、あいつ私よりも全然大人だったかも。


大人になった、金髪の少女だったアスカは、あの日彼女をはたこうとした手のひらを、彼の華奢な背中の後ろでエレベーターの天井を陣取って居る、蛍光灯の光にそっと透かした。

122: シイ 2009/09/04(金) 21:56:29 ID:???
当時知りえなかった最下層へと、エレベーターは続く。
「もうすぐだよ。」
シンジが呟いた、アスカも頷く。
「こんなところ、あったんだ。」
「うん、ミサトさんに、連れて来てもらったんだ。」
ミサト、その女性の名を聞いてアスカは、はっとして息を呑む。
先程、シンジのデスクの上にミサトのペンダントが置いてあったことを、記憶から排除しようとした矢先の発言だった。
思慮深い女性を目指したつもりはなかったが、それきりアスカは沈黙を守ることにした。
その間、おしゃべりだったのはエレベーターの駆動音だけで、二人の間には、どうにも埋まらない距離の代わりに静けさが横たわって居た。
「綾波の遺体、見たことある?」
唐突に彼が告げた言葉は、酷い、の丈をいとも容易く超越していた、凄惨な言葉だった。
「ないわよ、そんなの。」
「そっか、なら、」
彼がその先に紡ごうとした言葉は、エレベーターが目的地に着いたことを示す、ポーンという簡素な音にかき消された。

「着いたよ。」

その音を、警笛と感じなかった彼女は自分の愚かさを後々ひどく呪うこととなる。


第三章・終

130: シイ 2009/09/05(土) 21:33:47 ID:???
IDカードを取り出して、アイスキャンを彼がせわしなく行う。
アスカはその様子を一瞥し、この奥に隠されているものの重要さを推し量った。

やがて重々しい扉が、縦とも横とも言えない、亀裂を走らせたような開き方をした。
口頭一発、彼女は、
「なによ、これ…!」
とりあえず自分の眼を疑った。思わず眼帯も外し、両の眼を見開く。
「ダミープラグの源、今は残骸だけど、」
そんなのでは説明がつかない。
オブラートに包んだような回りくどい言い方は止めろ、と彼女は喉元まで出掛けたが、

「同時に、一つの魂を護る為の器、だったもの。」

水槽に浮かんでいる、数多の「綾波レイ」という器だったもの、現在では全てが破壊されており、それを見つめるシンジは苦虫を噛み潰したような表情で下唇を噛み締めた。
呆然とするアスカは、その中心に隔離された、一体の「綾波レイ」を見つけた。

「あの、綾波だよ。」

これが、自分たちが接して居た、二人目の綾波レイ、ということをシンジは暗に指し示した。
その裸体の腹部には、妊娠線らしきものが、ほのかに浮かび上がっている。
「うそよ、だってこの子は、」
アスカは声音を震わせるが、
「死んでるよ?、でもこの一つだけ、器が完璧な状態なんだ。これなら、サルベージして魂を宿らせるのも可能。どうしてだと思う…?」

134: シイ 2009/09/06(日) 14:20:09 ID:???
アスカは一息吐き平常心を装い、愚問ね、ともらす。

「そんなの、意図的に抜き取られたとしか、考えられないわよ。」
魂をね、と付け足すシンジは、少女のままの綾波レイが入れられている棒状の水槽に、指輪が嵌った手のひらを置き、アスカを見やる。
「そう、だから綾波を連れ戻す、迎えに行くんだ。」

――それが、僕の計画。

そう続けるシンジに頷き、アスカは自分の身体を抱き締めるように腕を組み、水中で浮遊しているレイを見上げる。
「そう、」
アスカは何か言いかけたが、その先はずっと何も語らなかった。もう薬指の指輪には一瞥もくれなかった。
彼女は、自分は利用されたのであったと、本当は愛されて居ないのだと、思うことによって、なんとか仏頂面を保って居た。
被害者意識を持たないと、やっていけないほどに、アスカは彼の言葉に激しく打ちのめされ、心にレイに対する醜い嫉妬がどろどろと渦巻いて居た。
力を抜いて、ぶらりと垂れ下がった左手から、先程真実を見つめる為に、ひっぺがした眼帯が滑り落ちてしまったことに気付かない程でもあった。

135: シイ 2009/09/06(日) 14:21:19 ID:???
「ワンコくん達、戻って来ないねぇ。」
良い加減、痺れを切らしたのか、マリがレイジを横目で見て言うが、レイジはマリに一瞥もくれずに先程の写真立てをずっと飽きずに凝視していた。
やがて、少年は写真の左端に点在している、赤インクの存在に気付いた。
思わず手首を返し、後ろに向けた時、

「過去よりも大事なことは、ないの?」

思わず、声の主に振り返る。
彼女は珍しく、無愛想な天井と向かい合って居た。
眼鏡の奥の表情は未だ読み取れないままで彼は疑問符を並べ、首を傾げた。
「今、二人が何してるか気にならないんだ?」
皮肉とも取れる彼女の言葉に、口を噤んだレイジは、下唇の薄い皮を、ぎりり、と噛み切るような勢いで噛み締める。
深く眉根を寄せる彼は、おもむろに写真立ての中から写真を取り出す。
まだ幼い彼と、あおい彼女が写っている裏には、紅い文字がびっしりと陳列していた。予想以上の赤に、ごくり、と唾を呑み込んだ。

136: シイ 2009/09/06(日) 14:22:49 ID:???
『レイジへ。きっとあなたがこれを読んでいる時には、私はここには居ないでしょう。』
マリが後ろから、ちらりと覗いて居るのが判ったが、そのまま気にせずに、シンジのデスクの前にある、パイプ椅子に腰掛けた。
『私はもうすぐ人為的に殺されます。成長していくあなたを見れないのが心残りです。』
きっと彼女は、生と死の概念への執着心は薄く、ただ純粋な思いだけがここに在る、そんな思いをレイジは垣間見た気がした。
『だから、あなたに託します。碇くんを、』
碇くんを、のところには、横線一本入っていて訂正されていた。
『あなたのお父さんを助けてあげて下さい。私は遠い地であなたを待って居ます。きっとあなたが見る私は抜け殻だと思いますけど。』
最後の文は彼女に似つかわしくない言葉だとレイジは感じた。
『レイジ。頑張って。――綾波レイ』
レイジが立ち上がると、マリは出口を顎でしゃくった。
「ここへの経路はあのエレベーターだけだから。追うも帰るも好きにしなよ。」
例の写真を持ったまま、少年は走り出した。

137: シイ 2009/09/06(日) 14:23:38 ID:???
先程からレイジが乗っている、寂れたエレベーターが、がくん、と上下に激しく揺れた。
「着けるのかな、これ…。」
不安げな少年の呟きは、空気中に散らばり、足許に転がった。


一方、マリはひとり、ぽつりと研究室に佇んで居た。
「行っちゃったか…、でもワンコくんも無茶するもんだ、」
誰かに教え込むように、やさしく諭すように、コンクリートが剥き出しの床にマリの声音が染み渡った。
「あの子を甦らせるなんて。」
――アスカも、綾波も幸せにするんだ。
そう言い切った彼の面影をレイジの残像と瞼の裏で重ね合わせる。
何が彼女達にとって幸せなのか、彼にそれが実践出来るのか、疑問ばかりが浮き彫りになり、マリは何回もしきりに首を捻ったのだった。
「所詮、君は独善的なんだよ、甘いね。」
皮肉気味に嘲笑った、天井を見つめて居た瞳の灯りは、研究室の片隅に在る、丁度彼女から死角になる場所へ、監視カメラに向けられていた。

141: シイ 2009/09/06(日) 21:20:42 ID:???
随分と下降したところで、エレベーターから降り立ったレイジは、入り口が縦横無尽に裂けた世界の中に居る二人を見つけた。
「父さん、アスカさん。」
思わず呼び掛けると、中の暗がりに居たアスカは、ぎょっとして振り向き、眼帯をしていた筈の蒼い眼で彼の姿を見つけた。
「レイジ!?来ちゃ駄目!」
しかしアスカの懸命な叫びも虚しく、レイジは水槽を捉えた眼を大きく見開いた。
「な、」
音もなく土に塗れたスニーカーの上に、写真が舞い降る。
膝から、がくん、と力が抜け、レイジは崩れた。
「どうして…、父さん。」
「僕は、父さんみたいにはならない。誰にも綾波を殺させない。」
誰の為に言っているのか、シンジはレイジの肩越しにはるか遠くに在る何かを見つめて言う。
アスカはより一層厳しく眼を細める。墓参りのときのような、哀愁じみた表情は見当たらない。
どちらにしても破壊されたレイの群像を見るのは彼はまだ、青過ぎるのであった。

142: シイ 2009/09/06(日) 21:22:38 ID:???
エレベーターで上昇し、再び研究室に戻ってきた三人は暫く、通夜のような重苦しい空気の中、黙ったままであった。
意を決したのか、アスカが水分が涸渇して、ざらつく唇を一舐めし、彼に訊く。
「レイジ、今日は遅いし、ここに泊まる?」
レイジは、項垂れたまま首を振り、ゆっくりと踵を返す。
「いえ…、帰ります。」
掠れた返答を聞き、アスカは消え入りそうな彼の手のひらを掴んだ。
地下で先程落とした写真、それに彼女の眼帯を渡した。
それからアスカはレイジを抱き寄せ、赤子をあやすように、背中をぽんぽん、と軽く叩いて、肩越しに耳元でこう囁く。

「私は真実から逃げないから。レイジも逃げなかったら、また会えるわ。」

彼女から離れ、揺れ動く、今にも溢れんばかりの水分を孕んだ、彼女の蒼い両の眼を見てから、眼下に在る痛々しい傷を見て、また彼女の眼に視線を戻し、こくり、と頷いた。
去ってゆくレイジを黙って、母のように優しいまなざしで見送るアスカの後方で、シンジは沈黙を守って居た。

144: シイ 2009/09/07(月) 22:04:39 ID:???

夜遅い時間に帰ってきたレイジを、マリは咎めはしなかった。

ただリビングの机で俯く彼と向き合って座って居た。

机の上を見ると、写真が一枚と、眼帯が乗っかって居た。
それを不思議そうにマリが指先で拾いあげた。

「…アスカさんは、真実がら逃げないって、」

「そっか。」

眼帯を摘み上げたままマリの返事は、案外に素っ気無いものだった。
呼応するかのように、ようやく緊張が解けたのか、レイジの肩が震える。

「母さんが、生き返ったら、うれしいけど、…母さんは、」

しゃくり上げるレイジはたどたどしく、しかし言葉を紡ぐ。

「母さんは、それで幸せなのか、分からない…。」

「ワンコくんは幸せ、というのを履き違えてるかもね。」

ぴっ、と指先を瞬発的に離すと、黒い眼帯は、ぐにゃりと机の上に沈んだ。
レイジの手前側にある写真の上には、既に水滴が幾つか弾んでいた。


「君は、どうしたい。」

145: シイ 2009/09/07(月) 22:06:33 ID:???
レイジは、思わず赤ぶち眼鏡の彼女を勢い良く顔を上げて見上げた。
深夜のリビングには、マリの真っ直ぐに凜と張った声音と、レイジの鼻をすする音、それに嗚咽しか響かない。

「君が嫌だって言っても、ワンコくんは彼女を甦らせるだろうね。」

きっぱりと、残酷という言葉に近い意見を彼女は告げた。
そしてまた、彼は俯いた。

幾分か時間が過ぎ、マリが眠気で意識が朦朧として来た頃、レイジは涙で光る頬を見せた。

「…なら僕は見たい、」

そう言うレイジは物心付いて、初めて人と会話した、施設に居た時を朧気に思い出した。

「母さんが生き返る瞬間を、…見届けたい、です。」

たどたどしくそう言うと、マリはにっこり、と口角を上げ、珍しく晴れやかな笑いを見せた。

「そう。じゃあ明日から送り迎えしないとなー。」

学習塾の送迎のような手軽さで、片道一時間の切符を軽々とレイジに手渡したようなマリの言いように、レイジは未だ濡れて居る頬の筋を、ふっ、と弛緩させた。


第四章・終

146: シイ 2009/09/08(火) 15:57:44 ID:???
それから数ヶ月経ったある日、ネルフの化粧室の中で、苦戦している姿が在った。

「うぇ、こんなにきついんだ…はぁ。」

洗面台に手をつき、金髪がだらしなく下がり、鏡に映る額にはじんわりと汗が光って居た。

「駄目よ、アスカ。このくらい、なんてこと無いわ。」

そう鏡の奥の自分に言い聞かせるが、眉間の皺はまだ消える気配は皆無であった。

「辛そうだね。」

鏡の端に映る彼女が、壁にもたれ、腕を組んで居る。

「…もう暫くの、辛抱だから。研究に切りが着く迄よ。」

「それはいつ、かな?」

返答に窮して居るアスカに、まだマリは続ける。

「この数ヶ月、一緒に、子犬くんとネルフに通ってたけど、数時間しか寝てない状況じゃん?」

「黙ってなさいよ!」

アスカが、洗面台についた手を、拳にして鏡の中のマリを殴り付けると、入り口に居た、当の本人を押し退けるようにして、化粧室をあとにした。

「ワンコくんが気付いてるとは、思えないけどねー?」

当然、その言葉にアスカが化粧室の外で、立ち止まり、身を固くしたのは言うまでもなかった。

147: シイ 2009/09/08(火) 16:02:18 ID:???
それは、ネルフ内の廊下を二人で歩いて居るときだった。

「…うん、もしかしたら甦った綾波は僕たちのことを知らないかも。」

他愛ない会話の途中、束ねた書類を抱えたシンジが言った。
ファイルとノートをぎゅっと、両手で肩を抱くようにして抱き締めるアスカが眼を丸くする。

「そうなの?」

「奇跡に近い、パーセントが出てるからね、」

シンジは靴先を覗き込むようにしてから、息を吐き、アスカを見やった。
彼女の顔色が悪いことにも、漸く気付いた。

「どうしたの?、調子悪そうだね。」

心配する指先がアスカの頬を掠めるが、彼女がそれを冷たく払い除け、大股でシンジより幾歩か前に抜きん出た。

「全然平気!」

そう強がったのも束の間、彼女の視界が歪み、足元はぐらつき、シンジが思っていたよりも、随分と華奢な身体が大きく右側に傾いだ。
そして、床に倒れ込む。

「…アスカ!」

シンジが書類を放り出して駆け寄ったのは、倒れた彼女を見て、暫く呆然とした後であった。

149: シイ 2009/09/08(火) 20:43:21 ID:???
「アスカ!しっかりしてアスカ!」

シンジはアスカを胸に抱えて気が狂ったかのように名を連呼した。

「アスカさん!?」

声を聞き付けて、レイジがぎょっとした顔で駆け寄る。
その後方で、マリは少し困ったように苦笑していた。

「アスカを…助けて、」

掠れた声でシンジがマリに告げる。

マリは溜め息を一度だけ吐くと、狼狽しているレイジに携帯を半ば放り投げるように手渡す。

「救急車は後始末が面倒だから、タクシー呼んで。」

レイジは震える指先で、携帯の発信履歴のページを開いた。

「ば、場所は、」

漆黒の眼だけこちらに向け、いたたまれない気持ちでレイジは携帯を耳に当てがう。
それを見てマリは暫し首を傾げてから、倒れてままのアスカを抱き締め、焦躁感に駆られて居るシンジを横目で一瞥し、レイジに向き直る。

「旧第三新東京市総合病院、別棟の産婦人科。」

150: シイ 2009/09/08(火) 20:44:20 ID:???
「産、婦人科…?」

シンジは焦躁感が未だ浮かんで居る顔に、またきょとんとした表情を塗り付けた。

「もうすぐで来るそうです、」

「了解、運ぶよ。」

アスカの運搬をしながら、シンジは浮わついた視線で周りを見渡して居た。
動揺している父を見て、余程アスカのことを心配して居るんだ、と産婦人科の意味も知らぬまま、レイジはシンジとは逆に、妙に安心していた。



「お父さん、こちらへ。」

アスカが運び込まれて暫く経った後、シンジが呼ばれる。

のそり、と立ち上がり、脱力感漂うシンジを、薄いソファに座っているレイジとマリは見つめて居た。

看護師の言葉に少々違和感を感じたレイジは、思ったことをそのまま、マリにぶつけてみることにした。

「お父さん、って…、」

マリを見上げると、口許に意味在りげに、含んだ笑いを浮かべて居た。
マリがそう言う笑い方をするときはきっと嫌なことを隠して居る。
経験上により、言葉を唐突に切り、口を噤んだ。

153: シイ 2009/09/12(土) 00:12:44 ID:???
「胎児に問題は見られません、よって流産の心配は無いでしょう。」

淡々と説明する医師のもと、シンジは冴えない表情をしていた。

よりによって、数ヶ月ネルフに籠り、異性なんて自分にしか顔さえ合わせないような相手。
確信と責任感、そして依然として正体不明の興奮によって、未だ目覚めぬアスカの傍ら、押し潰されてしまいそうなシンジが居た。

「ん…、」

横のベッドから小さく呻き声が聞こえた。

「アスカ!」

「なに…、ここは…。」

シンジが思わず声を荒げた為、驚いたアスカが起き上がろうとするが、看護師に制され、そのまま寝かされる。

「過労と、睡眠不足ですね。前回もそうでしたけど、式波さんはもう少し、妊婦としての自覚を持ちましょうね。」

「ひとりの身体じゃないんですよ?」

医師と看護師に苦笑混じりに諭されて、アスカは、はっとしてシンジを見上げた。

「良かった…、アスカが無事で。」

降って来た言葉が、予想外にあたたかな言葉ということに、自然とアスカは目頭を熱くさせ、薄い枕に頬を埋めた。

154: シイ 2009/09/12(土) 00:16:05 ID:???
歩いて帰りたい、アスカがそう言うと、レイジとマリが黙って頷き、病院からタクシーで帰って行った。

「もう、クリスマスか。全然気付かなかった。」

大通りの中心に立っているツリーを見て、アスカが白い息を吐いた。
シンジはと言うと、地下に籠って居て今まで地上に上がることが無かった為、ネルフが出て行く際に、マリからコートを渡された時は流石に戸惑ったが、初めて感じる寒さに身を震わせ、静かに彼女に感謝した。

「あの、ちゃんと一人で育てるから、シンジは心配しないでね。」

急にもごもごとアスカが呟き、 シンジは少し驚いた顔をした。

「何言ってるの、僕たちの子供でしょ?、…二人で育てよう。」

「…ありがと。」

そうアスカが微笑むと、シンジも微笑った。

しかし、そんな優しい世界はやはり脆弱で、アスカの一言により、あまりにも簡単に崩れ落ちた。

「…シンジは、何も言ってくれないもの、」

華美な装飾でさんざんと煌めくツリーの前で、不意に立ち止まったアスカの言葉にシンジは思わず目を見張った。

163: シイ 2009/09/13(日) 13:37:48 ID:???
「アスカだって、何も言ってくれないじゃないか…。」


くしゃり、と顔を歪めたのは、あの日の少年さながらである。
シンジがそう言うと、アスカは涙混じりに声を荒げた。

「だってそうでしょ!好きとも言ってくれない、手も繋いでくれない、ただ身体を求めるだけじゃ、」

言い終わる前にシンジはアスカを抱き締めた。
路上、行き交う人々がちらちらと眺める中、アスカは火を噴くように、思わず顔を赤らめた。

「ちょっと…、」

シンジは彼女の華奢な身体が壊れてしまうという程に強く抱き締めて、息を大きく吸い込み、

「好きだ!好きだ!好きだ!好きだ!、どれだけ言ったらアスカに伝わるの!?」

肩越しの声は、どちらかともなく、心なしか震えている。

「シンジ…、」

「僕はどうせ偽善者だよ!、綾波を甦らせるのだって、罪の意識からだよ!、本当はレイジにアスカを出会わせたくなかったよ!」

シンジの中で何かが外れたかのように、思いの丈を腕の中のアスカに告げる。

アスカはただ、シンジの見たことも無い姿に呆然としつつ、初めて聞いた本音に素直に涙を流して居た。

164: シイ 2009/09/13(日) 13:38:54 ID:???
「…分かったわ、シンジ。私も言ってなかったわね、」

と、アスカはシンジの先程よりも、だいぶ緩まった腕をそっと振りほどき、少女のように悪戯っぽく、笑みをたたえる赤くなった目尻をもう一度拭いて、

「好きよ、シンジ。」

シンジはきょとん、としてから、頬を緩ませ、先に言われちゃったなぁ、なんて小さくぼやいてから、しっかりと頷いて、

「オレも、アスカのことが好きだよ。」

そう言った途端、ツリーの周りに居た人々の歓声が際立った。

「…はじめて、見たよ。」

「私も。」

思わず見上げた、昏い色合いの空から真っ白な雪が頭上から舞い降りる。初雪だった。

顔を見合わせ微笑む二人に、白い天使が次々と祝福を告げ、地面に染みをつくる。

「今日くらい、休もうか。」

「そうね。」

まるで学校をさぼるような軽い言い様に、二人は一度噴き出してから、冷たくなった指先を絡めて、帰るべき場所へと歩み出した。


第五章・終

165: シイ 2009/09/13(日) 13:40:48 ID:???
「お兄ちゃんは、なんでママのこと、アスカさんって呼ぶの?」

数年後の紅い海が打ち返す砂浜に、ふたつの足跡があった。
手を繋ぐ兄妹の、市内の高校の制服である紺色のブレザーと、薄桃色の短い丈のワンピースが風になびく。

「シイちゃんは、レイさんのこと、レイさんって呼ぶよね?」

シイちゃんと呼ばれた、黒髪に蒼い眼の女の子はぷくっ、と頬を膨らませた。その表情は、よく兄に似ている。

「だから、お兄ちゃんもレイさんのこと、母さんって呼ぶんだよ。」
「…むー。りふじん!ぎぜんしゃ!」
「ママの真似しないの、」

苦笑混じりに頬をつつく彼の指をぎゅっと掴んだ。

「食べちゃうのー!」
「あぁっ、よだれよだれ!」

口を大きく開いた女の子と、指を捕食されそうになるレイジの少し遠くで、少女と同じ色の眼をした女性が呼んでいる。

「レイジ、シイカ!ごはんよ!」
「ママッ!」

その声に過敏に反応し、両手をぱっと離したシイカが駆けて行く。

その後ろ側を、やれやれと呆れた声を出し、後頭部を掻きながら、澄み切った青い空を見つめているレイジ。
彼が目線を戻し眼を凝らすと、砂浜の外側から手を振る夫婦と、そのすぐ側で車椅子に乗った彼の若過ぎる母が見えた。
彼らに微笑みながら、砂浜にまた新たな足跡を付け、歩み寄って行った。





元スレ:https://changi.5ch.net/test/read.cgi/eva/1249222202/