389: kou 2009/08/14(金) 11:59:42 ID:???

『Motion Picture Soundtrack』

生まれ変われるなら。
時計の針を戻せるなら。

あの日の私を殺してしまいたい。
あの日の貴方を殺してしまいたい。

赤銅色の光の中で起こった真実が、あの触れ合いならば。あの言葉ならば。

決して二度と触れ合えない程遠くへ行きたい。

390: kou 2009/08/14(金) 12:03:44 ID:???
波の音がする。いや、波の音しかしない。先程まで泣きじゃくっていた彼は、死んだように動かない。
かく言う私もだらりと、ぼんやりと、何もかもが無機質になった風景を見ていた。
あぁ、終わったんだ。始まりの無い終わりが始まった。
言葉ではなく直感的に悟った。意味なんて無い、ただそこに置き去りにされた事実があるだけ。
そう思うと、痛むはずの左目がぴくりと動いた気がした。
「…」
「…ァ」
「黙って」
消え入りそうな声をぴしゃりと止めた。

その後は簡単だった。

男とはいえ、無抵抗な瞳を浮かべた人間に馬乗りになるなんて事は、造作も無いことだ。
「ねぇ」
「…」
「優しくしてくれた?」
「…」
「みんな、優しくしてくれた?」
頬に手を当てて、出来るだけ柔らかく撫で上げる。涙でかさついた皮膚がパリパリとめくれる感触。
「僕は…」
「ん?」
「狡くて臆病で弱虫で…。でも、みんな僕を見てくれてたんだ。父さんでさえ…」
「そうね」
「だから、僕も誰かを好きになれるかも知れない。誰かが好きになってくれるかもしれない」
そう、当たり前なのだこの言葉は。溶け合った心が理解させた嘘偽りの無い情報。聞くまでも無い、確かな答え。

でも私は、こうして彼を試すしかなかった。

「……ッッ」

親指に食い込む小さな喉仏が、唯一反抗していた。

391: kou 2009/08/14(金) 12:06:49 ID:???
「ねぇ…私のこと、好き?」

ごくり、と音を立てて飲んだ固唾が彼に聞こえていないか心配だった。彼のうめき声も波の音に消されてしまうくらいだから、その心配は無用だったけれど。

「…グゥッ…ア、アス…」

待ちに待った答えが聞けるのだろうか。そう思うと、一層手に力が入ってしまう。

「なに?」

嬉しいような、哀しいような、苦しいような。複雑な笑顔を浮かべて彼は言った。

「アスカ、ありがとう。愛してる」

「なんで…」
なぜ
「なんで…!」
こんなにも
「私を見てくれなかったのぉ!」
涙が溢れてくるのだろう

解けた縄のように、私の腕は力無く落ちた。離すまいと食い込ませた指も糸屑のように。
砂に触れた雫が点々と染みていく。赤い海に還って行くように。

「アスカ、僕、謝らないよ。だって、僕もアスカと同じだから」
「…うん」

いつか見た甘い夢のような、そんな風では無かったけれど、誰かに愛を伝えられたのは初めてだったから泣いた後の心の落ち着き方なんて知らなかった。

392: kou 2009/08/14(金) 12:09:22 ID:???
たぶんこの瞬間、私は死んだのだろう。
今まで必死になって取り繕ってきた『惣流・アスカ・ラングレー』という人形が、『碇シンジ』の手によって綻びを修正されたように思う。
多くは語らなかったけれど、これが私の始まり。
これを見た貴方がどんな感情を持つか、どんな風景を思い描くかわからない。
でも事実を伝えないと、納得出来ないのは貴方達も同じでしょう?
例えそれが、人のトラウマをほじくり返すような事を書けという出版社と、「別にいいと思うよ」の一言で済ませた我が愛しのバカ朴念仁に背中押されて書いた物でもね。

さてこれで最後だけれど、一言書いておくわ。
これを読んで、貴方がこの先どんな凄惨な人間関係を築くことになっても一切苦情は受け入れません。関知しません。
ま、こんな本を手にとって頂く紳士淑女の方々が、いちいち突っ掛かるようなユーモアの無い人ではないでしょうから安心ですけど。

ではみなさん、我が家の養育費への出資ありがとうございました。


碇アスカ 著 『いい男のつかまえかた』
第四新東京ゼーレ出版社

終章より抜粋

393: kou 2009/08/14(金) 12:12:07 ID:???
スレ汚しサーセンでした。
ちなみに『Motion Picture Soundtrack』はRadioheadの曲のタイトルからとりますた。

398: kou 2009/08/22(土) 03:45:47 ID:???



『雨雲』

その日はとても重たい雨の降る日だった。ぼたり、と執拗なまでに滴る音が響く。
少し微熱気味のシンジは、窓に張り付いた雨粒を布団の中から数えた。

今の日本でもそう言えるのかは定かではないが、所謂夏風邪をこじらせてしまい一昨日の晩から寝込んでいる。
一時よりだいぶマシになったといえど、まだ額の中心にふわふわした痛みがあるし、手足も奴隷さながら枷を着けたように重い。なにより昨日一日寝込んでいたせいで家事が出来ずに、二人の同居人が勝手知る我が家のはずの仕事に悪戦苦闘している様を見るのが辛かった。
洗濯をすれば泡が異常発生し、はんこが無いと家宅捜索が始まり、掃除とは名ばかりの台風が葛城宅を襲った。
心配してくれたミサトが帰りに買ってきた、栄養満点の食材を二人掛かりで黒魔術よろしくの様相を呈した時は、さすがに重い腰を上げざるを得なかったが。

時計の針を見れば午後四時過ぎ。朦朧とした意識では定かではないが、恐らく10時間は合計で眠っていただろうか。所々、様子を見に来る二人の顔が思い出されるので、朧げながら起きていた時もあったように思う。
今度ばかりは眠気も覚めて、じっとりとかいた汗の感触が背中を蝕みはじめたので汗を流そうと洗面台の方に足を向けた。
「いてて…」
久しく動かした手足はくさびを打ったようにぎこちなく、痛みを伴う。
パキパキと体をよじりながら行くと、洗面鏡に張り紙とその下に小さい紙袋が置いてあった。
張り紙の方には
『薬です。早く良くなってね』
ね、のロールしている部分がハートマークになっている。おそらくミサトの文字だろう。
更にその言葉に指された矢印の元にあるいびつな文字が
『リツコから貰った薬だから副作用に気をつけなさい』
と書いてあったことだ。
「いくらなんでもそんな…」

399: kou 2009/08/22(土) 03:46:48 ID:???
そんな馬鹿な、と思う一方もしもの事態を想像して身震いしてしまうのは、時折見せるリツコの狂気じみた瞳のせいだろうか。などと、考えている事に気付いたら馬鹿らしくなって笑ってしまう。
血の気の引いた顔で笑う自分の笑顔が映る鏡に張り付いた紙袋を手に取り、用法を確認する。
『昼、晩食後に一錠』
もちろん今起きたばかりなので、胃袋の中には何も入っていない。
市販の薬ならば別に大丈夫だろうとそのまま口に放り込んだだろうが、アスカの提言の件もある。
水を入れたコップと紙袋を持って行き、お粥でも作ろうと食卓へ移動する。

「ただいまー」
プシュ、と扉の開閉音。
がさりと両手にビニール袋を持ったアスカが帰宅した。
食卓の方から音がするので覗いてみると、シンジが台下の米びつからカップを出し入れしている。
「あれ、なにやってんのシンジ?」
「あ、おかえり」
振り向いた先を見れば袋から飛び出た葱やらなんやら。
瞬時に昨日の惨劇を思い出す。まず、ミサトが調達した食材が白子とかレバーといった珍味系の物の時点で気付くべきだっただろう。それらをむりやり調理し「あれもこれも」と様々な味付けをした結果、ペンペンがご飯の時間に部屋から出てこない程のオーラを持つ物体が誕生した。
「なんて顔してんのよ」
引き攣った笑顔を再度浮かべたシンジに言い放つ。
「反省はしてるわ。でも後悔はしてない!何故ならアレはミサトの愛情過多による、行き過ぎた行動が原因なのよ」
グッと胸の前に握り拳を当てる。
「私に不備があるとするなら、それを止めることが出来なかったことね」
「でもアスカも一緒にキャーキャー言っ…」
「失敗は成功の母!過去を省みても明日は来ないわ」
少しは見たほうがいい、と口には出来ないまま次の質問に移ることにした。

400: kou 2009/08/22(土) 03:48:12 ID:???
「で、その袋に入ってるのは?」
「ああ、これ?よいしょ」
テーブルの上に乱暴に袋を乗せる。どすんと音を聞く限り相当な重量のようで、よく見るとアスカの手はビニール紐の跡と紫色の斑模様がついていた。
「葱でしょ、ニラでしょ、白菜に豆腐に諸々…あと昆布」
一応聞いてみる。
「…調理法は?」
「あんたバカにしてんの?鍋よナベ。これなら、私にも作れるでしょ」
暗に料理下手だと認めてしまっている事には敢えてツッコミを入れず、素直に礼をする。
「ありがとう」
「まぁこの私にかかれば、鍋だろうが釜だろうがお茶の子さいさいよ。…ところで」
今度はアスカが指差し
「あんたまだ薬飲んでないの?」
「うん、今起きたんだ」
米をジャーに入れつつ答える。
「で、今からお粥を作ろうと…」
「黙って寝てなさい!」
ぴしゃりと言い止められたあと、手に持ったカップを奪い取られる。呆気に取られ後ろに後ずさると、コツンと頭がレンジの取っ手に当たった。
「病人は病人らしくしてて!まだ薬も飲んでないなんて病人の風上にも置けない奴だわ」
激しく言い放つアスカの無茶苦茶な理論に内心ツッコミを入れつつも、気圧されてコクリと頷く。
フンと鼻息一つ。奪い取ったカップ片手に改めて米びつを開ける。
しばらく様子を見ていようとアスカの後ろに立っていたが、また何か言われないうちに部屋に戻ろうと背を向けるようとする。
「…ちょっとまって」
と、汗ばんだシャツの端を捕まれて引き留まる。悔しそうな表情を向けず、神妙な声で言う。
「水の量、教えなさいよ」


シャツを着替え汗を拭いたあと再びベッドに戻ったシンジは、湿り気を帯びた髪を掻き上げてもう一度窓の外を見た。張り付いていた雨粒達は地に落ちて、夕暮れのオレンジが薄く雲間から射している。
所々まだ厚みの残った雲が残っているが先程のような重い雨は無くなり、いつしか優しい時雨のような雨音が鳴っていた。

401: kou 2009/08/22(土) 03:50:01 ID:???
ネズミが鳴いているように静かな雨音。西日が少し入り込んだ部屋は少し眩しい。
ふと、痛みの和らぎはじめた頭が勝手に思考する。
雨が降るシステム。

山から川、川から海へ注がれた水は、太陽の熱で蒸発して空に昇る。
空中で滞留した蒸気は密度を変えて雲になり、風に流され空を駆け、やがて山にぶつかって雨になる。
そして流れる水は山へ還り、川へ…。

理科の授業で習った内容が何故か頭に浮かんだが、その循環の様がとても美麗な風景となって鮮明に現れた。雄大な山から湧き出る水。清らかで、時に激しい川。怖いほどディープブルーの海。隙間を縫うように青い空。降り注ぐ第三新夜東京市の雨。
そんな事を深く考えていると、気分穏やかになったシンジは本日幾度目かの睡魔に襲われた。
「出来たわよ!」
過剰に激しく開けられた襖に、病人に対する思いやりは無かった。

小さな盆にちょこんと乗せられた茶碗からは湯気。その横に塩。
「熱いから冷まして食べなさい。あと、味付けは塩で好みに」
アスカなりにアレンジしているようで、刻み海苔が塗してあるお粥はシンジから見てもとても美味しそうに見える。
「すごいや、とても昨日と同一人物が作った物とは思え」
「殴るわよ」
はい、と目を伏せる。すぐ手が飛んで来ない辺りが気遣い。
「ま、そんな減らず口叩けるようになったんなら、もうだいぶ良くなったわね」
声を整えるように言うと、サッと間髪入れずにシンジの額に手を当てた。
「…」
「…」
特にこの間、会話無し。まだ熱があるのか、当てた手が熱いのか。
気恥ずかしい雰囲気にアスカが手を引く。
「ね、熱は無し!よって食べてよし!」
「う、うん」
ごまかすように茶碗に手を伸ばして、これまたごまかすように口へ粥を放り込む。
「あっちぃ!」
口をパクパクさせて、行き所の無い焦点が空を行き交う。
「バ、バカ!み、水!」
勢いよく手渡した水は、シンジの口に注がれることなくタオルケットに染み込んだ。

406: kou 2009/08/23(日) 04:49:53 ID:???
遅くなりました。>>401からの続きです。

結局のところアスカが作ったお粥の味は、焦土と化した舌では十分に味わうことが出来ずにシンジの胃袋に収まった。
タオルケットを通り越して染みこんだ水はスウェットまで到達し、脱ぎなさいの一言の後に山賊さながらタオルケットもろとも身ぐるみを剥ぎ取られた。

満腹感を得て薬を飲み、ごちそうさまと手を手を合わせる。
「おいしかったよ。アスカ、ありがとう」
今だ気恥ずかしいのか、特に返答もなく食器を淡々と片付けるアスカ。カチャカチャと無機質な陶器の音が鳴る。
「…ミサト、今日は早く帰って来るみたいだから」
と言い残してロクに表情も見せずに部屋から出ていく。来訪の時とは対照的に襖の閉まる音は静かだった。
気に障ることを言ったかと少し考えたが、アスカの気分の180度変換は今に始まったことではないのですぐに思考停止した。
下半身がやたら風通しの良い状態になっている事が気になりはじめた頃、シンジの携帯電話がブルブルと震え出した。
メール着信 葛城ミサト
『おっす体調どう?もう帰るわよん。何か欲しいものある?さっき蝮ドリンクなるものを見つけたからキープしておいたんだけどいる?』
「蝮ドリンク…」
病人の精力を増強させてどうするのだ。食に対してのベクトルが相変わらず明後日の方向を向いている内容のメールを見て思う。
『お疲れ様です。飲み物はお茶がありますので結構です。ミサトさんが飲んで頂いていいですよ』
メールを打ちながらも少し素っ気ないかとも思いつつ、お灸を据える意味で敢えてそのまま返信した。
バタン!とまた突然、襖が怒りの咆哮をあげる。憮然と立ち尽くすアスカ。
「うぇ、な、なに?」
シャツとパンツ一丁のあられもない姿を晒しているシンジは思わずよじって体を縮める。
ずかずかと踏み込んで来るその様はまるで鬼神の如く。手に持った代えのタオルケットとスウェットを、横になっているシンジの顔に投げ付ける。
視覚は不意に奪われ、聴覚と嗅覚と触覚で今の状況を把握しようとするも徒労に終わるだろうと悟り、素直に聞いてみた。
「どうしたの?」
顔に纏わり付いたスウェットを退けて、アスカの方を見る。片手に包丁。背筋が冷たくなる。

「ダシの取り方、わかんない」

溜め息を吐くと、一緒に魂まで抜けそうになった。

407: kou 2009/08/23(日) 04:50:42 ID:???
一時呆然としたが、スウェットを履きアスカの待つ台所へ向かうと、食卓の上には所狭しと並べられた食材が置いてあった。先に見せてもらった食材のほかにも鱈や出来合いだが鶏のつくね等、なかなか食べ応えのあるものもある。
コンロの上には取り合えずといった具合にグツグツ煮えた鍋が蒸気を放って鎮座していた。
「何が分からないんだったっけ?」
ショッキング映像を見せ付けられながら言われた事など右から左。包丁から反射する光にアスカの狂気を垣間見たようで、内心気が気でないまま食卓まで来た始末だ。
「ダシよダシ。昆布ダシ」
片手に持った包丁で横たわる干し昆布をコンコンと叩く。
「あ、そっか。…ダシだけでいいの?」
「バカにしないで。ダシさえ取れれば後はこっちのもんよ」
ここは逆らわずに、適度な大きさに昆布を折っていく。ほほぅと後ろから頷き、手つきの良さに感心するアスカ。
しかしそれなりに厚みのある昆布を折るにも、今のシンジには結構な重労働。元々芯の細い腕はぷるぷると頼りなさげにアスカの目に映った。
「ほら、もう分かったし貸しなさいよ」
粉吹いた昆布をシンジの手から取ると、同じように折っていく。
入れ代わるようにアスカの後ろに立つと、手持ち無沙汰になった状態で様子を見る。二、三折ったところで鍋に投げ入れると沸騰した湯が少し落ち着いて、小さな泡がポツポツと沸き始めた。
「いつまで見てるの。まだかかるから、部屋で休んでなさい」

ここでふと気がついた。何だろうか。
帰ってきてからのアスカはとても優しい。あくまで普段と比べてという意味だが、料理を作ることはおろか手伝ってくれた事もない。あまつさえわざわざ部屋に足を運んできてまで介抱してくれるなど想像もしていなかった。
それに時折みせる、柔らかな命令口調。慈愛、というと言い過ぎだろうか。
ともかく、振り返りながら自らにそんな風に言ったものだから、シンジが口走った言葉に他意はない。

「今日のアスカ、お母さんみたい」
「な、なにバカ言ってんの!」
投擲された物が昆布で良かったと、リビングでタオルケットを深々と被ったシンジは思った。

408: kou 2009/08/23(日) 04:52:11 ID:???
そして数十分…。シンジはテレビを見ている。否、チャンネルをいじっている。
大掛かりなセットで喚き散らすコメディアンの声も、ロマンチックな展開に歯の浮く台詞も、バットの渇いた打音とアルプス席の歓声も、一切耳に入らなかった。
テレビを見る自分。隣の部屋でまな板を叩く音。違和感。
飼い馴らされているなぁ、とも思ったがそうではない。居ても立ってもいられない感じもあるが、いままで体験したことのないシチュエーションに正直どう対処すればいいのか分からなかった。
ここでまた「わかんないからパス!」とか「なんで私がバカシンジの世話焼きなんか!」と言ってくれた方が、幾分気が楽だ。
野菜を切る音が止んだので、少しばかり様子を見てみようと食卓を覗き込む。
「…!」
シンジは驚愕の光景を日に二度も目の当たりにする。なんと、アスカが鱈の腹に刃を入れて捌いているではないか!
危なっかしい手つきだが、初めてするソレとは違う。明らかに体験済みであろう手つき。
でっぷりと太った腹から内臓を取り出しうまい具合にそれらを別の器に乗せると、流し台に行き鱈の身を洗う。
そこでシンジは見るのをやめて、改めてテレビに身を向けた。
なんだかイケナイものを見てしまったような、アスカの入浴後の風呂で縮れ毛を発見してしまった時よりも危険なものを見た。表情が自分でも固くなっているのが分かる。
元々料理が出来たのか?いや、昨日の味付けを思い出せ。ミサトさんもいたとはいえ、明らかに料理に於ける等価交換の原則を無視していたではないか。では何故あんな芸当が?料理本の類は側に無かったはずだ。
これが口から漏れていれば今日、あの鍋で煮られるのは己になるであろうこと請け合いの思考が頭を交錯する。

「たっだいまー」

半狂乱状態のシンジを尻目に、家主のミサトが帰宅する。ストローで小瓶の中身を吸いながら。
「お、やってるわねぇアスカ」
「やっと帰ってきたわね。もう出来ると思うから手伝いはいらないわよ」
「おやおや甲斐甲斐しく張り切っちゃって。洞木さんちまで習いに行ったかいがあっ」
「アーアーアー!そんな事よりミサト!着替えて食べる支度でもしてて!」
「ふふぅん。ま、そうしますか」
自室に入っていくミサト。膨れっ面のアスカ。納得顔のシンジ。
ダシの良い香りが葛城宅を包みはじめた。

409: kou 2009/08/23(日) 04:53:34 ID:???
「そんじゃまぁ」
「「いただきます」」
ミサトの言う通り、甲斐甲斐しくご飯までよそってくれたアスカの隣に座って手を合わせる。
「病人のためとは言え、中々の重労働だったわ」
「ごめんねアスカ、わざわざ委員長に習ってまで」
ふわふわと揺らぐ湯気に纏われたアスカの顔は、あくまで湯気のせいよ、言わんばかりそっぽを向いた。
「ふん、礼は食べてからにしなさい。余りの美味しさに熱が再発するといいわ」
「こんなに美味しそうなの作ってくれるなら、いつでも風邪になっちゃおうかな」
「あ、あんたバカ!?無駄口叩かずさっさと食べなさい!」
箸で鍋を指して茶碗を促す。白米の上につくねを乗せ口の中に入れると、じんわりと肉汁が染みて旨味の層が広がる。久しぶりの濃いめの味付けに、休みなれた内臓が覚醒してつくねの養分を欲した。
「アスカ、これ本当に美味しいよ!」
旨味があれば白米がほしくなる。炊きたてを口にほうり込み、舌に熱さを感じながらも咀嚼する。
「シンジくん、そんなにがっつかなくてもまだまだあるのよ。ゆっくり食べて」
「ちょっとミサト!作ったの私なんだから、今日の鍋奉行様は私よ!」
ほれほれ、とポンポン小皿に具を投げ入れていく。ポン酢に浸された鱈からは脂が染み出してとても旨そうに漂った。
「待ってアスカ、そんな一気に…」
「問答無用!ほれ、ほれ」
「今度は胃もたれになっちゃうわね、シンジくん」
数日ぶりの三人揃った食卓は、熱い気候には珍しい料理で温かくなった。
「くわぁ」
そして今日は無事ペンペンも夕食にありつけた。

「ふぅ。食った食ったぁ」
鍋とビールで膨らんだ太鼓腹を叩きながら、先程アスカが捌き出した内臓を炙って作った肴をかじるミサト。
その横では後片付けに追われるアスカと、手伝おうとしたが止められたシンジが申し訳なさそうに椅子に座る。
水洗いの音と陶器のこすれる音。泡と悪戦苦闘するアスカを横目に、コソリとミサトがシンジへ近づく。

410: kou 2009/08/23(日) 04:57:31 ID:???
「どうかしら、体調の方は?」
「おかげさまでもう殆ど良くなりました。リツコさんの薬も効いてるんですかね」
ククク、と笑いを堪えるミサト。何が可笑しいのだろう。
「それ、アスカには言わないほうがいいわよ。『シンジの風邪ぐらい私が治す』ってリツコに食い下がってたから」
意外だった。アスカがそんなに自分を心配してくれているとは。
生来の癖なのか、感謝の気持ちよりも先に申し訳ない気持ちが出てくる。
「なんだかいろんな人に迷惑かけちゃったみたいで…。アスカにも…」
「シンジくん」
崩した体勢とは裏腹に、真面目な顔になるミサト。
「心配をかけるってことは、誰かに助けられるってことなの。そういう行為に対しての言葉はそうじゃないでしょ?」
満腹感を得た脳に染み入るミサトの言葉。確かにそうだ、と素直に受け入れることが出来る。
「もしシンジくんが落ち目を感じていたとしてもそれでいいの。昔の人はこう歌ってるわ。『追いつけない、と地球が丸い意味もそこで知った』ってね」
そういうと恥ずかしそうに頬を掻いて、少し酔いの回った赤ら顔をアスカに向けた。
「アスカぁ。私もう寝るわぁ」
「えぇ、ミサトは少しは手伝ってよ」
「料理が美味しいとビールも進むのよ」
対食器のしかめっ面をミサトに向けて文句を言うと、仕方なさ気に顔を戻して再びアスカは格闘を始めた。
姿勢を正して椅子から立ち上がると、シンジの肩に少し手を置いて軽く叩く。頑張ってね、と片目で合図を贈りながらミサトは部屋に戻って行った。

「ふぁぁ疲れた」
「お疲れ様」
どすんと椅子にもたれ掛かったアスカの前に置かれたのは冷えた麦茶。
「ん」
と一言いうと、コップを鷲掴んでごくりと一気に煽った。
「ぷはぁ!一仕事終えた後の麦茶は最高ね」
前から懸念していたが、最近アスカのミサト化が著しく進行しているのは気のせいだろうか。うん、きっと気のせいだと喉の手前に留めてく。
「どうシンジ?見直したからしら、私の腕前」
「うん、びっくりした。失礼だけど、アスカが料理してるとこ見たこと無かったから」
「能有る鷹は爪を隠すってね。今の私の前では鷹も霞むほどだわ」
食卓以外の電気は消えている。二人の会話はこの部屋だけに響いた。乾きかけの食器から落ちる水滴の音に、シンジは今日の雨を思い出した。
「アスカ、変な話していい?」

411: kou 2009/08/23(日) 04:58:28 ID:???
「な、なによ。つまらない話はやーよ」
「期待にそえるか分からないけど…」
咳ばらいを一つ、調子を整える。
「えと、今日一日ずっと窓の外を見てたんだ。雨が降ってる第三新東京」
「はぁ」
「見ながら思い出してたんだけど、雨ってどうやって降る?」
「なに?シンジが私に化学の講義?」
「もう、真面目に聞いてよ。雨が降る仕組み」
「雨が降る、地に溜まる、海へ流れる、熱で蒸発、のちに雲、が気圧の変化で雨になる。これでOK?」
「そう、それって循環だよね?そうやって循環していく様がこう、なんというかその…」
「なによ。ハッキリ言いなさいよ」
「うん、うまく言えないけど僕たちみたいだな…って」
「…へ?」
「アスカが優しい雨を降らせてくれると、僕も優しい雨を降らせたくなる。海が一杯になったらきっと雲が出来る。その雲は僕ら自身で、好きな場所に行って雨を降らせる。…みたいな?ごめん、うまく説明できないや。とりあえず僕が言いたいのは、ありがとうアスカ。てこと」

照れ臭さくて頬を掻く頃には、食器から滴る水音は消えていた。

「…ふぅん、バカシンジにしては洒落た話するじゃない」
椅子の脚の隙間で足をプラプラ揺するアスカの顔は伏せ目がちでよく見えないが、声の調子から不機嫌で無いことが伺える。
ともあれ言いたいことを言い切ったシンジには次の言葉はなく、なんとなく変な空気になった状況をどうしていいものか考えた。
「…だから、アスカが困った時は出来るだけ頑張るよ」
「今、まさに困ってるんですけど」
「え、何が?どうして?」
「バカ、自分の言ったセリフの意味ぐらい分かんなさいよ」
分かるも何も、自分の中でも抽象的にしか表現出来ないのだ。乙女心に今の話がいかに重たく響いたかなど、今のシンジには知る由もなく。
いつまで経ってもちんぷんかんぷんなシンジの顔に痺れを切らしたアスカが告ぐ。
「仕方ないわね。一度きりのチャンスをあげるわ。もう一回、いつかその話を私にして。そしたら今度は私がありがとう、って言ってあげる」

412: kou 2009/08/23(日) 05:01:30 ID:???
シンジにも分かるくらい赤く、真っ赤に染まった顔が見える。耳は爆発しそうなくらいに熱を帯びているし、動悸も不安定だ。
「あ、アスカ!」
ガタン、とテーブルから身を乗り出すシンジにびくつくアスカ。
努力が報われる。やっとこの病から解放される。

「どうしたの!?こんなに顔が赤くなってるし、熱もある。もしかして僕の風邪うつった!?」
と、期待するのが無駄だったようだ。
「くぉおんのブゥワカシンジー!」

後にミサトは語る。
あれはビンタではない。乙女の怒りだったと。



終劇

413: kou 2009/08/23(日) 05:10:17 ID:???
注…料理描写が微妙なのは仕様です。ご了承下さい。
注2…アスカは料理中ずっと『あの恰好』でいました。葛城家の異常さが本作品の売りです。




元スレ:https://changi.5ch.net/test/read.cgi/eva/1215690262